龍馬ゆかりの地を行く 御所に砲声、蛤御門の変(産経新聞)

【龍馬ゆかりの地を行く・京都番外編】

 「パン、パン、パン」。元治元(1864)年7月19日朝、京都御所周辺から乾いた音が何度も響き渡った。「蛤御門(はまぐりごもん)の変」の勃発だ。気勢とも断末魔ともとれる声も交錯する中、御所の中で息を潜める公家たち。

 「蛤御門」は京都御苑の西側を南北に走る烏丸通沿いに建つ。門柱には鉄砲から発射された数発の弾痕がえぐれたような形で残り、戦いのすさまじさを今に伝えている。

 ペリー来航後、幕府が朝廷の勅許を得ず外国との不平等条約に調印。この幕府の弱腰ぶりに天皇の絶対的な権威を背景に外国を討とうとする長州藩ら尊皇攘夷(尊攘)派と、幕府と天皇が一体化して幕藩体制を強化しようとした公武合体派が対立した。

 それは東西700メートル、南北1300メートルの範囲に約200の邸宅が並ぶ京都の公家町でも顕著で、狭い通路を隔てて幕府側の九条家から長州藩側の鷹司家がにらみ合い、この戦いでは大砲を撃ち合うという状態だったという。

 蛤御門の変前の文久3(1863)年8月18日、薩摩・会津・土佐藩の公武合体派により長州藩が京都を追放された(八・一八の政変)。さらに翌年の元治元年、三条の池田屋に集まった尊攘派の志士が新選組に殺傷・逮捕されたことで、その報復として挙兵した長州藩。

 約3千人が伏見と天王山(京都府大山崎町)、嵯峨・天龍寺の三方から御所を目指したのに対し、守る幕府軍は8万人。長州軍は中立売御門と下立売御門を突破し、幕府軍を押す。蛤御門から御所の南西角まで進むと長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛の討ち死にした場所とされるムクノキがある。

 蛤御門を守るのが八・一八の政変の首謀者で、新選組を抱える会津藩というだけに、特に激しかったという。だが多勢に無勢。しかも三方の連携に欠けた長州軍が幕府軍に敗れた。

 長州側には、幕府寄りの藩の弾圧から逃れるため脱藩した多くの土佐藩士がいた。中岡慎太郎は天龍寺から目指したが途中で負傷し薩摩藩の支藩に助けられる。千屋菊次郎や松山深蔵、能勢達太郎、安藤真之助らは天王山で近藤勇ら新選組と会津兵の攻撃を受け、真木和泉(久留米)らとともに自刃している。

 京都と大阪の境、天王山の麓に建つ宝積寺。この境内にあるハイキングコースの入り口から結構険しい山道を登ること約30分、頂上に近い、うっそうとした木々に囲まれた中に真木らを顕彰した「天王山十七烈士の墓」がある。

 中央の17人の業績を記した石碑を取り囲むように並ぶ墓石。いずれもコケむし、木々の間から差すわずかな光で何とか名前を読むことができるが、長い時代の流れを感じずにはいられない。

 長州以外の中、四国の諸藩も尊攘か佐幕かで揺れ、京都でその一端を見ることができる。

 文久3(1863)年、因幡鳥取藩の尊攘派が西本願寺北隣にあった本圀寺で藩主側近の公武合体論者を襲っている。また、蛤御門の変では長州藩邸から逃げ出した桂小五郎を御所に近い堀川の藩邸に一時、匿っている。親藩の松山藩でも池田屋事件で討たれた尊攘派の中に同藩出身者の名前が見えるなど、内部では両派のせめぎ合いがあったとみられる。

 そして、当時の坂本龍馬は、貿易と海軍の必要性を説く勝海舟が設立した海軍総練所で船のけいこに励んでいたが、尊攘派として池田屋事件にかかわった総練所の塾生がいたために総錬所は閉鎖。このころから次第に龍馬も幕府から目をつけられるようになる。(園田和洋)

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